先日、運動の指導をしている方から「思ったようにクライアントさんの動きを引き出せないのは、わたしにセンスがないからなのでしょうか」と質問を受けました。

それに対するわたしの答えは、
「何事もあれこれやってみて、これは上手くいった、これは良い反応が得られなかったって試行錯誤をすることで上達するのではないでしょうか? 写真であれ、料理であれ、はじめっから上手な人っていないですよね? 繰り返しやっていくことで、最初の頃には気がつかなかったことも見えるようになっていくのでは?」。

10年くらい前、妹から写真を習っていたことがあります。彼女は学生時代に写真を熱心にやっていて、暗室に籠もってフィルムから現像をしたり、作品を展示したりしていたようです。妹と写真展を見に行くと、「この写真を撮ったカメラマンは女の人でしょ」なんて、わたしには感じられないようなことも、さらっと出てきて驚かされます。彼女がこれまで写真を通じて被写体に深く向き合ってきたからでしょう。わたしが撮った写真も、どうしてそんなことが汲み取れるの?というコメントが幾たびもありました。

センス

わたしのピラティスのセッションの中で、「なんでそんなことわかるんですか?」と聞かれるのも、妹の写真のセンスと同じ。クライアントさんの動き、それも身体的なものだけでなく、その背景にあるものが感じられるのも、先天的に持っていたセンスではなく、これまであれこれと試行錯誤を繰り返してきたからでしょう。

今週の月曜にcakesというブログにアップされた写真家の幡野広志さんがセンスについての悩みについて答えていました。その中で幡野さんも「なぜかセンスって先天性の生まれつきのような扱いなんですよね。センスや才能って先天性じゃなくて、間違いなく後天性のものですよ。」とおっしゃっていました。「センスを磨くということは、勉強をするということ」。センスはいつからでも磨くことができる、と考えると心強いですね。

そして印象的だった言葉は
「写真をやっている人が写真だけをインプットするのはあまりよくなくて、ありがちな最大の問題はカメラと写真の話しかできなくなっちゃうんです。キツイこといっちゃうけどつまらない人なんですよね、そしてつまらない人が撮る写真ってつまらないんですよ。」

これは、ピラティスのインストラクターだからって、ピラティスのエクササイズのレパートリーをたくさん習っても指導が上達するわけではない、ということに繋がるなぁ、と思いながら読んでいました。わたし達は人間である前に動物である。筋膜についての学会やシンポジウムではいろんな分野の専門家の方がお話しをしてくださるので、自然と視野を広げてもらえています。田んぼを眺めながらお散歩をしていたり、庭のメダカや植物を眺めている時にひらめくこともあります。わたし達も自然の摂理に基づいて生かされている生き物であることを忘れないようにしたいですね。